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「水道筋周辺地域のむかし」より その2

前回に続いて神戸大学文学部地域連携センター編「水道筋周辺地域のむかし」より水道筋の名前の由来について紹介させていただきます。

この研究資料によって古くむかしより灘周辺地域は農業用水の不足と、たび重なる水害に悩まされてきたことを知ることが出来ました。
”地名に歴史あり”と言われる通り「水道筋」にも人々の暮らしに密接した重要なポイントがあることが分かりました。
「なにか水道に関係のある名前かな~、、」とぼんやりと思っていましたが、実は神戸の発展と大きく関係していました。
今年は神戸開港150周年の節目の年になります。開港にともなって貿易や商工業が盛んになり神戸市の人口が急激に増加しました。市民の命を繋ぐ水の供給が布引や鳥原の水源地だけでは間に合わなくなりました。
そこで明治39年から新しい水源を探して市域外を調査した結果、武庫川支流の千刈川が水量・水質ともに良好だと分かり、新しい水源として千刈貯水池を開発することとなった。とあります。この千刈貯水池から西宮の上ヶ原浄水場(関西学院大学近く)を経て神戸市内(奥平野貯水池)まで水道を敷設されることになりました。
ー奥平野貯水池は諏訪山の”水の博物館”があるところで、筆者もよく通る道ですが残念ながらいつも素通り、今度行って来ます!ー
大正2年頃から西灘地域の土地が神戸市によって買収がはじまりました。当時の「神戸市事務報告書」には水道管の敷設には旧原田村、上野村、稗田村、鍛冶屋村、畑原村付近を東西に貫くほぼ直線ルートが選ばれたようである。
第一期工事が大正時代、第二期工事が昭和7年ごろに完成し、水道管を敷設したところの上が道路となって、その周辺に人々が住みはじめ、店舗ができたところから「水道筋」と呼ばれるようになったとあります。
はじめ38店舗が集まってできた畑原市場が大正10年頃、水道筋商店街は大正13年「水道筋聯合商工会」として発足したと記されいます。
戦後さらに新しい商業歓楽地域として発展していきますが、つづきは次回にさせていただきます。

はち乃めだか

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