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映画 ”「ペレ」伝説の誕生”紹介

サッカー好きな人はもとより、興味のない人にも楽しめる映画です。サンバのリズムにのって南米サッカーの原点をさぐる!
ペレは1940年ブラジル南東部ミナスジェライス州で生まれる。ブラジルの奴隷制度が廃止されたのが1888年だから当時はまだアフリカ系黒人に対する差別が色濃く残っていた時代であった。
父親は長身のサッカー選手としてヘッディングを武器に活躍した時期もあったが膝を痛めてからは、クラブから解雇され経済的にも困窮し、ペレは生活を助けるため靴磨きなどをして子どもの時から働いた。貧しい生活の中でもペレは母親の深い愛情を受けて育った。父親はペレの才能を見抜き練習に励むのであった。 マンゴをボール代わりに蹴るシーンが印象的で、日本では値段の高い高級果物ですがブラジルに自生するマンゴの木は高さ10メートルにもなる大木で一本の木から何千、何万個と実をつけるので、熟したマンゴが下に落ちて邪魔になるくらいだから日本ではもったいないようだがボール代わりに蹴る話にもうなずけます。
小さいマンゴをボールに見立て練習するものだから、本番でボールを正確に蹴られるわけである。奴隷から生まれた格闘技、カポエイラのような足さばきやジンガと呼ばれるサンバの元となる踊るように体を左右に揺らせてデフェンダーをかわすプレースタイルを身につけた。
1950年代のブラジルでは古典的なヨーロッパ式サッカーを目指す監督やコーチが主流で、曲芸のような足技は下品なプレーとされて禁止されていた。その上、チームの中で黒人選手が2名までという制限も設けられていた。
そんな時代にブラジルが開催国となった1950年のW杯ではブラジル優勝が確実視されており、国民も信じて疑わなかったにもかかわらずウルグァイとの決勝戦でブラジルが負けるというブラジルサッカー史上最もショッキングな出来事、「マラカナンの悲劇」が起こる。優勝できないブラジルに最も欠けていたのは、ここ一番勝負を決定できる選手がいなかったことであった。
その時少年ペレは絶対W杯で優勝するんだ!と父に誓うのであった。
サンパウロ州バウルーに転居したあとも練習を重ねていたが、サッカー靴も買えない貧乏な黒人では白人中心のクラブでは全く相手にされなかった。しかし、父親の友人で有名なコーチの口利きでFCサントスに入り1957年サンパウロ州大会で優勝した。
翌1958年スウェーデンで開催されたW杯で主力選手が怪我をしたため、ベンチで控えていた17歳のペレが監督に呼ばれた。監督は禁止していたカポエイラ風サッカーでもよいから自分で好きなように蹴れ!と言われたペレは自由奔放にピッチを駆け回り、見事なゴールを決めて世界中のサッカーファンを魅了したのでありました。かつて見たことのない華麗なプレーには相手国のスウェーデン国王までもが賞賛の拍手を惜しまなかったという。それ以降、ペレはブラジル代表チームのエースとして1962年チリ大会、1970年メキシコ大会の3回優勝に導いた。その後は1994年のアメリカ大会、2002年の日韓大会の唯一5回の優勝記録を持っています。
目からうろこの話:
背番号10番はペレ17歳の時、主力選手の怪我で代わって出場した時に付けていた番号で、エース番号でもなんでもなく、たまたま付けていた番号でした。それ以来背番号10番がエース番号として定着しました。

ブラジルは人種差別のない国として知られていますが、この映画を見ても厳然とした差別あったことが分かります。しかし、ペレの出現は黒人が持つ肉体的運動能力もさることながらペレの誠実な態度や素朴で人間味あふれる人柄なども尊敬の対象となって、アフリカ系黒人の地位向上に大きな影響を与えました。
ちなみに、筆者は現役時代のペレのプレー(サントス×コリンチアンス戦)をサンパウロのパカエンブーサッカー場で観戦しましたが、やはり背番号10は特別の輝きをしていました。
はち乃めだか
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