「はち乃めだか」です。この前のブログ当番の日、4/23(日)「第12回東神戸マラソン」があったので、当日勤務の「あかあおみどり」さんにその模様をブログ投稿していただきました。というわけで1週間遅れの投稿となりました。
さて、3回に亘って神戸大学文学部地域連携センター編「水道筋周辺地域のむかし」より、街の成り立ちと人々の暮らし、神戸市水道事業との関連について紹介してきましたが、今回は最終回として戦後、焼け跡から立ち上がった人々と昭和30年、40年代の賑わいぶりが詳しく記録されていますので紹介させていただきます。
戦災からの復興
昭和21年5月11日の空襲は水道筋かいわいの商店街や市場に大きな被害を与え、そのほとんどが焼失し焼け野原になりました。
そんな中、畑原市場と畑原東市場がヤミ市のようなかたちで復興のスタートを切った。続いて灘中央市場と灘センター街が商品不足と資金難と闘いながら復旧に取り組んだ。灘中央商店街と水道筋商店街もほぼ同時期に店舗が徐々に増えていったようだ。
幸い山手の住宅街が戦災の被害から免れたことと、海岸の工業地帯(神戸製鋼など)の労働者ら多くの顧客に恵まれたことが復旧を速める大きな要因であったと記録されている。最も繁栄していた昭和30年代には、中央劇場、灘松竹、西灘東映、西灘第一、西灘第二劇場、といった映画館があり、中村座、摩耶劇場という芝居小屋もあった。ほかに戦後の水道筋商店街周辺には中央温泉、灘温泉、白井温泉、水道筋温泉といった銭湯もあり、まさに灘区民の娯楽の場として親しまれました。しかし時代の移り変わりとともに映画館、芝居小屋も今はなく、残念ながら営業を続けているのは灘温泉だけとなっている。
昭和38年ごろの水道筋かいわいの商店店舗図です。東西に水道筋商店街、南北に灘中央筋商店街、灘センター街その間に灘中央市場、畑原市場、畑原東市場とそれぞれ店がぎっしり埋まっていることが見て取れます。
スーパーマーケットの進出や人々の生活スタイルの変化など時代が移り変わるなかで、シャッターを下ろさざるを得なくなった現実がありますが、今なお元気な商店街として地元に愛され続けている水道筋かいわい商店の益々のご繫栄を祈念しつつ、ブログ水道筋シリーズ最終回とさせていただきます。
「はち乃めだか」