2017-06-19
引き続いて昭和の話にお付き合いください。
前回の東京オリンピックが昭和39年(1964年)に開催されましたが、筆者が中学生の頃はそれより更に4~5年前のことになります。
プロ野球では川上哲治監督率いる巨人軍が王・長嶋を擁して最強のV9時代を築こうとしていました。戦後のプロ野球人気を定着させたといわれた、球史に残る名勝負、天覧試合(巨人対阪神戦)が後楽園球場で行われたのもそのころでした。王・長嶋だけでなく阪神にも今も解説者として活躍されている吉田義男、小山正明をはじめ村山、田宮、藤本、並木などスター選手が揃っていました。
そして、両陛下の後方で野球の解説をされていたのが中澤不二雄氏(当時パリーグ会長で旧神戸中学OB)でした。 「中澤さん一中出身やで、緊張するやろな!」と父親が買ったばかりの17インチの白黒テレビの前でごく庶民的な感想を語っていましたが、大多数の人が戦後民主主義の世の中になったとはいえ、天皇陛下と直接話をすることなどありえないことと思っていたのでしょう。
大相撲では名横綱となった大鵬がまだ幕下にいて、将来を有望視されていた頃。それから、のちに「東洋の魔女」
と呼ばれた女子バレボールが大松博文監督率いる「日紡貝塚」で”なせば成る”を合言葉に猛練習をしていた頃。
そんな時代の中学バレー部の話です。当時神戸市で強かったのが東は上野中、鷹匠中、本山中 西は丸山中、鷹取中、それと我が大橋中がベスト8まで進む常連校でした。神戸市大会は王子動物園の北側に隣接するバレーボール専用の王子コートでした。(現在はテニスコート)当時のバレーボールは試合も練習もすべて屋外でした。
上野中学が攻守ともにバランスがとれた強豪校でした。他校の生徒からも恐れられた熱血先生の厳しい練習が定評で、つまらないミスをするとグランドの砂をつかんで選手の足元めがけて容赦なくぶつけるのでした。小さい砂利も混ざっていて結構痛かったそうです。今なら体罰で問題になるところですが、根性を鍛えるという意味(今は理解できないけど)でそのへんは寛大だったように思います。それにしても砂をぶつける先生は珍しかったです。
長田からはちょっと遠いですが、上野中学によく練習試合に行きました。日の長い6月・7月頃、長田北町から市電に乗って(将軍通り行きか石屋川行き往復25円片道13円だったと思う?)上沢通り~湊川公園~楠町6丁目~県庁前~加納町3丁目~布引~上筒井通り~王子動物園前~水道筋まで。
練習試合の楽しみは市電に乗れることと、氷水が飲めることでした。訪問先の学校がおもてなしで大きいやかんにカチ割り氷を入れてくれるのです。”練習中は水を飲むな!”と教えられてきたので喉はカラカラで唾液もでなくなります。それだけに休憩時間に飲む氷水のうまさは格別で身体に滲みました。やかんの蓋の蒸気穴を指で押さえて一人ずつ順番に飲むのでした。最後の生徒に順番が回ってくるころには次の練習がはじまろうとしています。
今思えば衛生面でも順番待ちの時間を短縮するためにもコップを用意すればよさそうなものですが、その発想がまったくなかったのが当時の中学生らしいところです。
長々と3回も昭和の思い出話にお付き合いいただき有難うございました。そんな時代のことが伝えられたら幸いに思います。衣・食・住はもとより、医療・通信・情報などすべての面で、あの頃のことを思えば信じられない速さで進歩しました。
そして今、贅沢はできなくても好きな物が食べることができ、冷蔵庫やエアコンもあって快適に暮らすことができることに感謝しなければならないと思っています。今自分が一番良い時代を生きていると言えるかもしれません。これから何年か先(そう長くはない(笑い))灘区民ホールで働いていた頃のことを懐かしく思う日が確実に来ます。その時、何歳になっていても今が一番と思えることができたら最高ですね。
はち乃めだか