2017-03-29
みなさんお久しぶりです。
三度の飯より映画が好き・・・と言えば、私、ヨドガー・ナグァ・ハールのこと。
今日は、私にとってこれまでの人生でもっとも心の奥深くに響き、魂が揺さぶられた作品をご紹介します。
「ベニスに死す」
監督はもちろん ルキノ・ヴィスコンティ。
最初に観たのは中学生の頃でした。
正直、まだあまり共感も理解もできず、“滅びの美学” とか、何となくそういう手垢のついた言葉でこの映画を語っていた気がします。
その後、ベニスの白い砂浜が逆光に輝くラストシーンに、感動の涙を流したのは大学3年の夏。
この、突き上げるような感情は何なんだろうか・・・。
主人公は、自分の芸術に究極の美を宿すために探求を続ける作曲家・アッシェンバッハ。モデルはもちろんマーラーです。
芸術論を戦わせる友人でありライバルの作曲家(モデルはシェーンベルク)から “凡庸” と指摘されると、そこから脱却するためには “あえて官能に委ね、汚れに身を投じるため” 買春に娼館を訪れるほど、自身の芸術性の昇華に人生の全てを捧げたような人間として描かれます。
しかし、究極の美を見いだせないまま病に倒れたアッシェンバッハは、医師の勧めに従って静養のためベニスを訪れることに。
そしてここで、ビョルン・アンドレセン演じる運命の少年・タッジオに出会うのです。
タッジオに宿る美しさこそは、アッシェンバッハが芸術家人生をかけて追い求めてきた “究極の美” そのものでした。
自身が失い、タッジオに宿る “若さ”、そしてさらには、自身が失いつつあり、タッジオに漲る “生命”。
光り輝く “究極の美” に迫ることが出来た時、すでにアッシェンバッハには最期の時が迫っています。
ここで思い出されるのは、冒頭近くのベニス到着直後のシーン。
実家にあったという砂時計についてアッシェンバッハが語ります。
「最初は砂の量が減らないように見える。残り少ないと気づくのは、いつも砂がなくなる寸前だ。それまでは誰も気にしないのに」
確か、そんな感じだったと思います。
アッシェンバッハの生命がまさに失われようとするその瞬間に、長い人生をかけて探求の旅を続けてきた究極の美・・・決して手に入れることが出来ない生命の輝き・・・を見るのです。
この映画は130分あるのですが、すべてはこの最後の一瞬に向かって収斂していきます。
失われる生命と引き換えに、究極の美である生命の輝きを見る・・・。
なんと残酷で、なんと美しいのでしょうか。
その時、初めて私は悟ったのです。
「ベニスに死す」は、人生において大切な人や故郷、あるいは信じるものや希望を失う・・・といった、苦く、哀しい経験を重ねた人の方が、より深い部分で共感できるような映画なんだ、と。
そして、そんな経験は普通、年齢を重ねないと出来ないものです。
しかし21歳の夏、私には、その直前に大切な人との永遠の別れがありました。
その痛切な記憶がなければ、あれほどの衝撃があったかどうか、それは今でも分かりません。
ただひとつ言えることは、“この映画は観る人の人生を問う” ということだと思います。
これからの人生でも、節目を迎えた時にはまた必ず観返したい。
そんなふうに思える映画は、私には「ベニスに死す」しかありません。
さて、11回に渡って書き続けてきた「人生の大事なことは映画が教えてくれた」というシリーズですが、今回が最終回になります。
最後ということで私、ヨドガー・ナグァ・ハールが一番大切に思っている、一番好きな映画のことを書かせていただきました。
これまで読み続けていただき、本当にありがとうございました。
いずれまた、どこかでお会いしましょう。
それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
ヨドガー・ナグァ・ハール